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三宅 玲子

ゆりかごというリトマス紙



(*2020年12月のメモより)

自分で育てられない赤ちゃんを匿名で預け入れる、こうのとりのゆりかご。

初めて取材した2017年の冬、ゆりかごの扉の横にマリア像が彫り込んであるのを見て、残酷な……、という思いがよぎったことを思い出します。赤ちゃんを棄てにきた女性がマリア像を見たら、責められるような気持ちになるのではと想像したためです。

ところが、その直後、運用している熊本・慈恵病院の看護部長の一言に衝撃を受けます。

ゆりかごの運用についての説明をしてくれたその人は、赤ちゃんを預け入れた女性にはなるべく声をかけることにしていると言い、運よく話を聞けるような状況に持っていくことができた場合は、必ず「連れてきてくれてありがとう」とねぎらうというのです。マリア像は、母親たちを慰めるためにそこにいるということになります。


ゆりかごに連れてくる人たちは、誰もが自分では育てられない事情があり、でも赤ちゃんには生きてほしいと必死の思いでここに連れてくる。これが慈恵病院の一貫した姿勢でした。


育てられないなら産まなければいい、そもそも妊娠するような状況をつくったのは自分ではないか。それでは親に育てられない子どもの権利はどうなるのかーー。ゆりかごに反対する立場の人たちからはこうした言葉を聞きます。


ゆりかごに連れてくる女性たちを「赤ちゃんに生きてほしいと願う親」ととらえるか、「無責任な子捨て」とみるか。どちらの側に立つにしても、まず、女性がそのような選択に至った背景には何があるのか。それを知ることからしか、理解のいとぐちはつながらないように思います。


ゆりかごに預け入れる親の多くが、自宅や車中などで一人で出産し、疲れ切った体で車を運転したり新幹線に乗ったりしてやってきていました。その背景には個々にどのような事情があるのか。今年はこうした予期せぬ妊娠をした女性が一人で赤ちゃんを産んだことが発端での事件や事故が噴出した年だったように思いますが、実は13年前にゆりかごが始まったのは、こうした孤立出産で失われる赤ちゃんの命を救いたい、という医師の強い思いがきっかけでした。


ゆりかごのある熊本市では、内密出産を巡って、ゆりかごを運用する病院と、管理責任のある自治体の間で対立が生じています。今回はその問題を取材しました。

家族とか親子とか血縁とか、そういった、善良なものという常識で私たちが解釈している価値を揺るがせるこの問題は、子どもは誰のものなのかを考えさせるものでもあります。

「生まれてきたことで人間はすでに存在を肯定されている」と言ったのは、思想史家の渡辺京二さんですが、婚姻関係の有無などの親の状況とは無関係に、子どもは等しく誕生を祝福され、大切にされるべき人たちであることを改めて思った取材でした。

孤立出産に追い込まれた女性たち、自分で育てることをあきらめてゆりかごにたどり着く女性たちは、おそらく、大切にされた子ども時代を経ずに大人になった人たちなのではないかと思います。

ゆりかごも内密出産も、社会はこれまで子どもを本当の意味で大切にしてきたのかを問いかけていますし、ゆりかごや内密出産にどう向き合うかは、私たちがこれからどのように子どもの権利を尊重するつもりなのか、本気度を確かめるリトマス紙。今回の取材を終えてそんな気がしています。年明けから取材の続きが始まります。(写真は熊本城二の丸から見た暁の東の空)




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