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三宅 玲子

「いつも心に阿弥陀様を」      

かつて日雇い労働者の街だった山谷の寺に生まれ育った、浄土宗のお坊さん、吉水岳彦ご住職を取材しました。(AERA6/12号 「現代の肖像」)

妻帯せず酒を飲まず煙草を吸わず、朝晩の勤行を欠かさない、僧侶として曇りのない生き方を貫いていらっしゃる44歳ですが、この信仰が遠くなった時代になぜそこまで?という疑問が、取材の始まりでした。

そのとき、一方で、この困難な時代にほんとうは信仰を必要としている人が多いのに、宗教家は神や仏と現代人をつなぐ役割を果たさないなか、この吉水ご住職が徹底して僧侶として働いているのはいったいどういうことなのかを知りたいと思いました。


吉水ご住職は2008年に、元路上生活者の合葬墓を皮切りに、身寄りのない人たちとともに生きる山谷のホスピスやNPOの合葬墓を受け入れてきました。その中にはキリスト教系の団体の墓もあり、また、お寺の観音様はロザリオを胸にさげていらして、それはキリスト教の人でもおまいりができるようにはからわれたものだそうです。 ここまでの広い心はいったいなんだろうと思いました。

同行を始めてみれば、上野の夜回りは毎週欠かさず、東北には震災以来通い続け、困っている人、悲しんでいる人に尽くしに尽くす、でもいつもほがらか。 疑問が膨らんだ先にやっとわかってきたのが、吉水さんの心の中には阿弥陀様がいつもいるということでした。


今、心の問題を私たちはセラピストの力を借りて解決しようとします。信仰も認知行動療法も、物事を違う角度から捉えなおす技術を手にいれるという意味では似ているところがあると思います。が、認知行動療法やマインドフルネスはあくまで自分との対話であるのに対し、信仰は神様や仏様との対話を通して、自分を見つめ直すということなんですね。神様なり仏様なり、他者がそこに介在することで孤独が軽くなる、というのは体感的に理解できた取材でした。


カトリックでは「神様助けてください」とひたすら祈ると、シスターにうかがったことがあります。浄土宗の場合は「南無阿弥陀仏(阿弥陀様、お願いします)」をひたすら唱えます。そしていずれの信仰でも、祈ることで神様なり仏様に心を預け、安心した心持ちを手に入れられるというのです。祈る対象は異なっていても、祈る思いは同じなんだなあと思うと、信仰がかの昔にどの地域でも生じた必然を感じます。


妻帯せずの理由は原稿に書きましたが、パートナーの人生を尊重するということと、世襲ではダメなんだ、という思いが重なり、心に矛盾を抱え込まない選択をした結果が、ご住職ご自身の信仰の歩みを深めるいとぐちとなっていました。 新しい世代の宗教家の姿に希望を感じ、感謝しました。




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